第五幕:阿津賀志山の戦い

印刷用ページを表示する掲載日:2016年10月1日

国見に阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)あり。奥州藤原氏の興亡をかけた決戦場。

阿津賀志山の戦は、義経の死後百日目にあたる。

阿津賀志山の戦のイラスト

国見町に現在も残る「阿津賀志山防塁」。それは、義経の死後、奥州制圧に向かう頼朝軍を迎え討つ藤原軍が築いた防御施設です。「平泉政権」の終焉をつげる奥州合戦の戦場となった「阿津賀志山防塁」を検証しましょう。

鎌倉軍を迎え撃つ大防御施設。

義経の自刃を機に奥州を制圧しようと、頼朝は全国のご家人を動員し、仙道、東海、北陸の三方面から平泉に向かいます。それらを迎え撃つべく、藤原氏は阿津賀志山(あつかしやま)に二重の空堀と三重の土塁からなる、長さ約4kmに及ぶ防塁(ぼうるい)を築いたのです。1189年8月8日早朝。鎌倉軍と奥州軍が激突。戦いの火ぶたが切られました。世に言う「奥州合戦」です。両者一歩も退かぬ戦いぶりでしたが、3日後阿津賀志楯(あつかしたて)は陥落してしまいます。やがて頼朝の軍勢は平泉を占領。藤原泰衡は家臣に謀殺(ぼうさつ)され、奥州藤原氏は滅亡します。

なぜこの阿津賀志山防塁が、構築されたのであろうか。

阿津賀志山防塁の模型の写真

東山道が福島盆地の平野部を過ぎ、今日の宮城県白石市、さらに平泉方面へ北上するには阿津賀志山(あつかしやま)の東麓(とうろく)から、貝田の地狭部と県境の峠を通らなければなりませんでした。現在も国道4号線、東北自動車道、東北本線などが重なり合う、交通の要衝になっています。両側から山地が迫るこの地狭部は、攻めるに難く守りやすい地形から、東山道を遮る形で、大木戸や防塁を設置して、鎌倉軍の北上を阻止する、防御地点として、選ばれたと思われます。

延べ25万人を投入した大事業でした。

阿津賀志山の写真

阿津賀志山(あつかしやま)の中腹から平野部に向かって阿武隈川の岸にいたるまで、約4kmにわたって、延々と築かれた空堀と土塁とからなる防御施設が阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)です。大部分が内と外二条の堀と土塁とからなっていますが一条の所もあります。防塁(ぼうるい)をつくるに要した労力は延べ25万人、6ヶ月以上もかかったと推定されています。この防塁をこの地では二重堀(ふたえぼり)と呼んでおります。

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