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義経物語

第五幕阿津賀志山の戦い
国見くにみ阿津賀志山防塁あつかしやまぼうるいあり。
奥州おうしゅう藤原氏ふじわらしの興亡をかけた決戦場けっせんじょう
阿津賀志山あつかしやまたたかいは、義経よしつね死後百日目しごひゃくにちめにあたる。

イラスト

国見町くにみまち現在げんざいのこ る「阿津賀志山防塁あつかしやまぼうるい」。それは、 義経よしつね死後しご奥州おうしゅう制圧せいあつかう頼朝よりともぐんむか藤原軍ふじわらぐんきずいた防御施設ぼうぎょしせつです。「平泉ひらいずみ政権せいけん」の終焉しゅうえんをつげる奥州おうしゅう合戦かっせん戦場せんじょうとなった「阿津賀志山防塁あつかしやまぼうるい」を検証けんしょうしましょう。

鎌倉かまくらぐんむか大防御施設だいぼうぎょしせつ
義経よしつね自刃じとう奥州おうしゅう制圧せいあつしようと、頼朝よりとも全国ぜんこくのご家人けにん動員どういんし、仙道せんどう東海とうかい北陸ほくりく三方面さんほうめんから平泉ひらいずみかいます。それらをむかつべく、藤原氏ふじわらし阿津賀志山あつかしやま二重にじゅう空堀からぼり三重さんじゅう土塁どるいからなる、ながやく4kmにおよ防塁ぼうるいきずいたのです。1189ねん8月はちがつ8日ようか早朝そうちょう鎌倉軍かまくらぐん奥州おうしゅうぐん激突げきとつたたかいのぶたがられました。う「奥州おうしゅう合戦かっせん」です。両者一歩りょうしゃいっぽ退かぬたたかいぶりでしたが、3日後みっかご阿津賀志楯あつかしたて陥落ぼつらくしてしまいます。やがて頼朝よりとも軍勢ぐんせい平泉 ひらいずみ占領せんりょう藤原泰衡ふじわらのやすひら家臣かしん謀殺ぼうさつされ、奥州おうしゅう藤原氏ふじわらし滅亡めつぼうします。

なぜこの阿津賀志山防塁 あつかしやまぼうるいが、構築こうちくされたのであろうか。
東山道 とうかいどう 福島盆地ふくしまぼんち平野部へいやぶぎ、今日こんにち宮城県白石市みやぎけんしろいしし、さらに平泉ひらいずみ 方面 ほうめん 北上ほくじょうするには阿津賀志山あつかしやま東麓とうろくから、貝田かいだ地狭部ちきょうぶ県境けんざかいとうげとおらなければなりませんでした。現在げんざい国道4号線こくどう4ごうせん東北自動車道とうほくじどうしゃどう東北本線とうほくほんせんなどがかさなりう、交通こうつう要衝ようしょうになっています。両側りょうがわから山地さんちせまるこの地峡部ちきょうぶは、めるににくまもりやすい地形ちけいから、東山道とうかいどうさえぎかたちで、大木戸おおきど防塁ぼうるい設置せっちして、鎌倉軍かまくらぐん北上ほくじょう阻止そしする、防御地点ぼうぎょちてんとして、えらばれたとおもわれます。

べ25万人まんにん投入とうにゅう した大事業だいじぎょう でした。
阿津賀志山あつかしやま中腹ちゅうふくから平野部へいやぶかって阿武隈川あぶくまがわきしにいたるまで、やく4kmにわたって、延々えんえんきずかれた空堀からぼり土塁どるいとからなる防御施設ぼうぎょしせつ阿津賀志山防塁あつかしやまぼうるいです。大部分だいぶぶんうちそと二条にじょうほり土塁どるいとからなっていますが一条いちじょうところもあります。防塁ぼうるいをつくるにようした労力ろうりょくべ25万人まんにん、6ヶ月かげつ以上いじょうもかかったと推定すいていされています。この防塁ぼうるいをこのでは二重堀ふたえぼりんでおります。

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